礼拝説教

背中が語る言葉

2月22日 四旬節第1主日


連日、ミラノ・コルティナ五輪の様子が報じられています。始まりがあって、熱戦があり、やがて閉幕を迎える。そしてまた四年後を待つ――その区切りのはっきりした歩みは、教会の暦にもどこか似ています。今、教会は灰の水曜日から始まる四旬節のただ中にあります。四十日という限られた時を、十字架を見上げながら歩み、やがて復活の喜びへと向かう。始まりは終わりへ、しかしその終わりは新しい始まりへとつながっています。

四旬節の初めに読まれたのは、イエスさまが荒れ野で誘惑を受けられた場面でした。四十日の断食ののち、悪魔は「石をパンに変えよ」「ここから飛び降りよ」「この世のすべてを与えよう」と甘く力強い言葉で迫ります。どれも人間の弱さを突く誘惑です。イエスさまは神の子ですが、同時に真の人でもあります。空腹や孤独、恐れを知るお方です。もしここで誘惑に屈していたら、救いの道は閉ざされ、世界はただ闇に沈んでいたでしょう。まさに世界の危機とも言える場面でした。

しかしイエスさまは、ご自身の力を誇るのではなく、み言葉に立って応じられました。「人はパンだけで生きるのではない」「主を試してはならない」「主を拝み、ただ主に仕えよ」。それは、荒れ野で神を疑い続けたイスラエルの民の歴史を踏まえた言葉でした。マナを与えられてもなお不安に駆られ、神を試してしまった人々とは対照的に、イエスさまは神への信頼を選び取られたのです。誘惑に勝つ力は、自分の強さではなく、神の言葉の確かさに寄り頼むことにありました。

私たちも、パンや水や富がなければ生きていけません。けれど、それだけで本当に生きていると言えるでしょうか。私たちは、主の言葉に養われ、憐れみによって生かされている存在です。十字架へと歩み出されたイエスさまの背中には、守るべき私たちがいました。その愛ゆえに、主は誘惑に打ち勝たれたのです。四旬節のこの時、苦しみや弱さから目を背けず、そこに示された神の愛と希望を見つめながら、復活の朝へと共に歩んでいきたいのです。

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