礼拝説教

希望が失望で終わることはない

3月8日 四旬節第3主日


今から三年前の三月、当時東京池袋教会の牧師であられたM牧師が天に召されました。私の初任地である宇部・厚狭教会の先輩牧師でもあり、この報せは私にとって大きな悲しみでした。人は、その名を聞けば姿や人柄が思い起こされます。与えられた恵みが大きいほど、別れの悲しみもまた深いものです。神学生だった頃、私もその悲しみを強く味わいました。葬儀を任されたにもかかわらず、涙が止まらず一言も語れなかったことがあったのです。神学校に帰りその時の経験をM牧師に話すと、こう言われました。「葬儀は礼拝だよ。そこで語られるのは神の言葉だ。牧師はその務めのために立たされている」。この言葉は今も私の中に大切に残っています。礼拝とは、神に感謝し、御言葉を受け、喜びも悲しみも神に委ねて癒される時なのだと思います。

イエスさまは「あなたがたがまことの礼拝をする時が来る」と語られました。これはサマリアの町シカル、ヤコブの井戸でサマリアの女性に語られた言葉です。ユダヤ人とサマリア人の間には長い歴史の中で生まれた深い隔たりがありました。しかしイエスさまはその壁を越え、彼女に「私に水を飲ませてください」と声をかけられます。ユダヤ人の男性がサマリアの女性に語りかけること自体、驚くべきことでした。

この女性は昼の暑い時間に一人で水を汲みに来ていました。当時、水汲みは多くの女性が夕方に連れ立って行うものであり、彼女は社会の中で孤立していたのかもしれません。しかしイエスさまは彼女と対等に向き合い、語りかけます。やがて彼女は「その水をください」と願い、イエスさまの言葉を信じました。そして彼女を通してサマリアの町に救いの知らせが広がっていったのです。

私たちも聖書から、枯れることのない命の泉である御言葉を受け取って歩んでいます。その泉を知る者として、今度は隣人にこの命の水を伝えていくよう招かれています。涙を流す日もあれば、涙をこらえて御言葉を語る日もあるでしょう。しかしその傍らには主がおられます。苦難は忍耐を生み、忍耐は品格を育て、品格は希望を生むと聖書は語ります。険しい道のりであっても、その先に希望があることを私たちは知っています。主の招きに応え、共に命の泉を分かち合いながら歩んでまいりましょう。

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