3月15日 四旬節第4主日
本日の福音書の日課は、生まれつき目の見えなかった人がイエスさまと出会い、触れられて目が見えるようになるという神の奇跡の出来事です。弟子たちはその人を見て、「この人が目が見えないのは、本人の罪か、それとも親の罪か」と尋ねます。しかしこの問いはどこかおかしなものです。もし罪の罰であるなら、生まれる前に罪を犯したことになりますし、そうでないなら親の罪ということになります。しかしキリスト信仰では、人は誰もが罪を負って生まれてきます。もし罪の結果だというなら、なぜ彼だけが罰を受けるのでしょうか。弟子たちは「なぜ彼は見えないのか」と問いますが、「なぜ自分は見えるのか」とは問わないのです。そんな問いに対して、イエスさまは人間の考えを超える答えを語られます。その人に神の業が現れるためだと言われたのです。
私たちは「神の業」と聞くと、病や障がいが癒される奇跡を思い浮かべます。実際、この人もシロアムの池で顔を洗うと目が見えるようになりました。しかし聖書には「なぜ」という問いに明確な答えが与えられないことが多くあります。イエスさまがなぜこの世に来られたのか、なぜ十字架によって救いが成し遂げられたのか。その答えは人間の理解だけでは行き着けません。信仰とは、理解を超えたところで神を信じる決断なのです。
この出来事の後、ファリサイ派の人々は癒しの奇跡よりも「安息日の規定が破られた」ということにこだわりました。人々は神の戒めに多くの人間の規則を重ね、元の何十倍もの細かな決まりを作り上げていました。しかしイエスさまは、そのような人を縛るルールよりも、困っている人を助けることこそ神の御心だと示されたのです。長い間彼を苦しめてきた「罪のせいだ」という言葉を、イエスさまはこの日覆されたのでした。
ところが、目が見えるようになった彼を見て、人々は喜びませんでした。むしろ疑い、問い詰め、ついには会堂から追い出してしまいます。せっかく目が見えるようになったのに、彼が初めてその目で見たこの世界は、冷たく、残酷なものでした。失意の中で、彼はもう一度イエスさまと出会います。そして「主を信じます」と告白します。それは目が見えるようになったからではなく、信仰の目が開かれたからです。イエスさまは、見えると言いながら神を見ようとしない人々に向かっても、諦めずに語っています。心の目を開かれるよう願い、十字架を見上げて主と出会う歩みへと私たちは招かれているのです。