10月19日 聖霊降臨後第19主日
先週、都南教会ではこどもまつりが行われました。形は変わっても、教会が地域に向かって開かれ、声をかけ続けている姿は変わりません。たとえ1000人のうち一人も教会に残らなかったとしても、誰も「無駄だった」とは言わない。それは、神の働きには無意味がないと信じているからです。やがて「0」が「1」になるように、神さまが導いてくださる。その希望をもって、私たちは働き、祈り続けます。
今朝の譬えに登場する「やもめ」もまた、決して諦めない人でした。神を畏れず人を顧みない裁判官のもとに、彼女は何度も訴えに来ます。裁判官はしぶしぶ願いを聞き入れますが、その動機は恐れからでした。イエスさまはこの譬えを「祈り」になぞらえて語られます。祈りとは、願いが叶うことを保証する手段ではありません。もし「祈っても叶わない」と嘆くなら、祈りの意味を見失ってしまいます。
イエスさまご自身も、ゲツセマネの園で「この杯を取りのけてください」と祈られました。しかし「御心のままに」と結ばれました。祈りは、未来を変えるためではなく、暗闇の中でも「神が共におられる」と信じて委ねる行為なのです。祈る相手が与えられている――それこそが祈りの出発点であり、帰る場所です。
やもめは、自分の正義を求めたのではありません。「神の正義が実現しますように」と願い続けました。旧約聖書は言います。「小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きは神に属する」と。彼女の祈りはまさにこの「神の正義」を求める祈りでした。だからこそ彼女は諦めなかったのです。
私たちの世界にも不正や不条理があります。祈ってもすぐに正義が実現しないとき、心が折れそうになることもあります。しかし神は、善人にも悪人にも太陽を昇らせるお方です。いま与えられている時にも、神の深い意味があります。だからこそ私たちは今日も祈り続けます。
祈りとは「叶ったら信じる」ものではなく、「信じるから祈る」ものです。祈りの結果を見て信仰を決めるのではなく、信仰があるからこそ祈りが生まれる。イエスさまはそのような祈りへと私たちを招いておられます。今日も祈る言葉を与えてくださる神に感謝し、「父なる神よ」と呼びかけるその言葉のうちに、私たちの希望と信頼を置いて歩んでまいりましょう。