10月26日 宗教改革主日
1517年10月31日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「贖宥の効力に関する95カ条の提題」を掲げました。これが宗教改革の始まりとされていますが、ルター自身は大きな改革を起こそうとしたのではなく、教会の在り方に静かに問いを投げかけたにすぎませんでした。当時、贖宥状は金銭で罪の赦しを得られるとされ、人々は死後の救いを買うようになっていました。平均寿命が25歳ほどの時代、死は日常であり、家族を天国に送りたいという切実な願いが、制度としての贖宥を支えていたのです。
しかしルターは、神が人を恐れで縛る存在ではなく、赦しと愛をもって包むお方であると気づきました。彼が出会ったのは「北風の神」ではなく「太陽の神」でした。ローマ書の「義人は信仰によって生きる」という言葉を通して、ルターは「神の義」とは人を裁く基準ではなく、信じる者を無条件に義とする恵みそのものであると悟ります。その瞬間を彼は「天国の扉が開かれたようだった」と語りました。
やがてルターは「我ここに立つ」と言って信仰を貫き、命の危険にさらされながらも、聖書をドイツ語に翻訳しました。その願いはただ一つ──神の言葉をすべての人に届けたいというものでした。学者や権力者のためではなく、町で暮らす人々に、母語でみ言葉を語りかけたい。ルター訳聖書は庶民の言葉で書かれ、信仰が民衆の中に息づく礎となりました。
日本のルター学者・徳善義和先生は語ります。「宗教改革主日は、宗教改革記念日ではありません。宗教改革は今も続いているのです。」──この言葉の通り、改革は終わった出来事ではなく、今もなお私たち一人ひとりに託されています。
イエスは言われました。「わたしの言葉に留まりなさい。真理はあなたたちを自由にする。」留まるとは、立ち止まることではなく、み言葉に根を下ろし、そこに生きることです。ルターが知った自由とは、好き勝手に生きる自由ではなく、み言葉に生かされ、希望をもって歩む自由でした。
ルターの信仰と生涯は、私たちに問いかけます。私を縛るものは何か。私を自由にするものはどこにあるか。答えはみ言葉のうちにあります。神の愛と恵みは、時代を超えて今も語りかけています。「真理はあなたたちを自由にする。」この主の言葉を心に留め、私たちもまた、今を生きる宗教改革者として歩み続けてまいりましょう。