礼拝説教

愛の中におられる方

5月10日 復活節第5主日


イースターから五週を迎え、教会はなお復活節の歩みを続けています。しかし来週は、イエスさまが天に昇られたことを覚える昇天主日です。そのため今朝は、復活の希望に耳を傾ける一区切りの時でもあります。福音書では、十字架を目前にしたイエスさまが弟子たちに最後の言葉を託されます。それは別れに備える言葉であり、いわば遺言でした。イエスさまは「私を愛しているならば、私の戒めを守りなさい」と語り、互いに愛し支え合うことを求められたのです。

第二日課のペトロの手紙には、「あなたがたの抱いている希望について説明できるよう備えなさい」とあります。キリストを主として生きる者たちの間には希望がある、その希望を語りなさいと勧めるのです。希望とは単なる期待とは違います。期待は裏切られることがありますが、希望を失う時、人は絶望に陥ります。愛する人との別れは、まさにその絶望をもたらします。弟子たちもまた、イエスさまの死を前にして深い絶望を経験しました。

教会はそのような絶望のただ中でこそ、復活の希望を語ります。葬儀の場で語られる「復活の日に与えられている、再会の希望」は、教会にとって何より大切なものです。もしイエスさまが本当に死に、本当に復活されたのでなければ、教会の信仰は成り立ちません。しかしイエスさまは死を超える命を示してくださいました。この復活の希望こそ、永遠に失われない希望なのです。

だからこそペトロは、迫害の中でも柔和に希望を語れと言います。それを支えたのは、イエスさまの「私を愛しているならば、戒めを守りなさい」という言葉でした。愛に生きることと戒めを守ることは切り離せません。ルターは、人は外から与えられる素晴らしいものに触れなければ愛することはできないと言いました。その「素晴らしいもの」とは、イエスさまの十字架です。神は独り子を与えるほどに世を愛し、その死と復活によって救いと永遠の命を示されたのです。

十字架は残酷な処刑の道具ではなく、神の愛が現れた場所となりました。そして復活の希望に生きる者たちは、祝福を受け継ぐために召された者たちです。ペトロが励ました「キリストを見たことがないのに愛している人々」とは、現代を生きる私たちでもあります。二千年前から受け継がれてきた復活の希望を胸に、今週も歩み出したいと思います。

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